故中谷常太郎初代社長の起業秘話
創業者である故中谷常太郎は、明治23年8月10日、一人息子として兵庫県高砂市に生まれ、一男六女の家庭にそだった。徴兵検査に合格すると、姫路の歩兵第三九連隊に入隊し、兵役を終えたら、写真屋か絵かきになろうと心に決めていたそうだが、大阪の船場で製造業を営んでいた義兄が亡くなった為、自分の好きな道を断念せざるをえなくなり、姉が大学を卒業し家業を継ぐまで、義兄にかわって姉の所で働いていた。
「男のしあわせとは、自分の好きな仕事を精いっぱいやれることだ」
と息子の故中谷太郎にいって聞かせたのは、このような経験をわが子にさせまいとする親心であったのだろう。
絵かき志望の、どちらかというと孤独な職業を望んでいた常太郎を、大阪の船場という環境が変えさせたのであろうか。いや、常太郎の努力が自らをそのように変容させたのだろう。姉が大学を卒業して跡目を継ぐ頃、旅先で知り合った一人の青年技術者との出会いから、常太郎はマイクロホンづくりに興味を抱き、次の自分の仕事と定めたのであった。
そして神戸へ移り、東亞特殊電機製作所を設立してマイクロホンづくりに着手した。こうして当社の事業の発端が開かれたのである。昭和9年9月のことであった。
[社内資料「継続は力なり」(故中谷太郎著)より 写真は創業当時の街の様子]
砂糖を銅鍋で炭化するまで焼くと、一度液状になったのちに粘度を増して黒い餅状になります。これを500度に予熱した坩堝(るつぼ)に詰め空気を遮断し、1,100度に焼き上げて急冷するとコークス状のカーボンになります。このカーボンを粉砕し粒度を揃え、マイクロホン用のカーボンとして使用しました。砂糖数キログラムから、わずか数グラムしか取れなかったといいます。
創業当時、「東亞携帯用増幅器」や「レコード録音装置」などアイデア商品も開発しています。「東亞携帯用増幅器」は、小型トランクにアンプ、マイク、スピーカーなどを内蔵し、主に葬儀社で使われていました。「レコード録音装置」も独自の技術で開発に成功。1台1台手づくりの受注生産だったため高価でしたが、引き合いも多かったといいます。その後、主として学校、工場の拡声装置としてロッカー型アンプを受注生産するなど、「拡声装置」の専業メーカーとしての地位を確立していきました。
レフレックス型トランペット誕生秘話
ある日、故中谷常太郎が、鉄板のつぶれたようなものを提げて帰ってきた。進駐軍払い下げ品置場の前を通ったら、ラッパのようなものがあったので頼んで分けてもらってきたとのことであった。いろいろ調べてみると、日本ではまだ見たことのないトランペットスピーカーで、ホーン(筒)の部分が従来のものと異なって反射式(レフレックス型)になっている。 軽くて形も小さく、取り付けも簡単で安くできそうであり、しかも性能が抜群に優れていることがわかった。 [写真は開発当初と後の機種]
物資不足のときではあったが、なんとか自分たちの手でつくれないものかと必死の努力をしてみた。その結果、国産品として初めて販売できるレフレックス型トランペットができあがった。
戦前からあったストレート型のトランペットは、当社の新製品レフレックス型トランペットの優れた 性能と使いやすさにおされて次々と姿を消してゆき、学校や駅などの復旧がすすむにつれてトランペットの需要が日ましに増加していったことは幸運であった。戦前の名残りで、ほとんどの電気製品は黒かグレーであったにもかかわらず、新しいトランペットだからと、思いきって明快な青空の色にしてイメージを一変した。
「青いトランペットがほしい」という注文が相次いだ。
「トーアのトランペット」、「トランペットのトーア」の第一歩であった。
[社内資料「継続は力なり」(故中谷太郎著)より]
経営基本方針
一、需要者(顧客)が安心して使用できる製品(商品)をつくる
一、取引先が安心して取引きできるようにする
一、従業員が安心して働けるようにする
東亞特殊電機株式会社
自主経営をすすめるにあたって昭和28年に制定したのが、現在『三つの安心』※括弧内といっている当社の経営基本方針である。
これらは三項目とも“製品をつくる”“とりひきできるように”“はたらけるようにする” となっている。要するに、不安の原因となることを事前につかみ、それを取り除くよう労使が力を合わせて前向きに努力してゆく、ということなのである。
満つれば欠ける、というのが世の慣いであるし、企業もその例外ではない。だからこそ、努力をして何らかの手を打たなければならないのではないか。何の努力もせずに“安心”ということは期待できない。不安の渦中にあって“安心”の状態を求めて何らかの手を打つ、努力する、その努力がやがて“安心”へとつながってゆくものだと私は確信している。
[社内資料「継続は力なり」(故中谷太郎著)より]
1954年(昭和29年)に世界初の「電気メガホン」を開発。遠方まで声が明瞭に伝わり、マイクロホンを片手に肩から提げて使用できるため携帯にも便利で、選挙の遊説を行う立候補者から好評を得ました。さらに1957年には日本初の「トランジスターメガホン」、1959年には「トランジスター車載用アンプ」の商品化に成功。最新技術を採用し、軽量かつコンパクト、省電力、高性能で世の中を驚かせました。
開発者が語る、「ER-57/58」 誕生秘話
『当時、国産のトランジスターはほとんどパワーを取りだせなかったため、海外から輸入していました。性能を引き出すのに苦労して、開発途中で何個も壊しました。その頃、入社したての給料が7,500円くらいで、パワートランジスターは一つ約1万円でしたから、よく許したものだと今でも思います。』
[写真は ER-58 ]
超巨大PA通達テストの様子
超巨大PAの大きさはなんと全長6,600mm、3,000mm口径。最長到達距離は12kmを記録しました。
1962年から1963年にかけ、場所をかえ、6回のテストが行われました。
1961年(昭和36年)に「白バイ用拡声装置」を開発、続く1962年には大出力PAの開発のための超巨大PA通達テストを成功させ、さらに1963年に真空管アンプ「HA-30」を世に送り出しました。「HA-30」は小型ながら高性能のアンプとして、さまざまな用途に広く使用することができました。「この出力でこの価格」をセールスポイントに「HA-30」の評価は徐々に高まり、アンプの名機といわれるようになりました。
1964年(昭和39年)に開催された第18回東京オリンピックは、日本の大会運営、優れた演出が全世界の人々に深い感銘を与えました。その演出を「音」でサポートしたのが当社の放送設備でした。ほとんどの競技会場に採用され、会期中は故障もなく無事役割を務めることができたことは、大きな誇りとなりました。
昭和史に残る『3億円事件』で犯人に使用されたメガホン ER-303
1968年12月、東京府中市で起った3億円強奪事件。白バイ警官に変装した犯人が使用し、捜査のポイントとなったのが、TOAのメガホン ER-303 でした。
当時、TOAも事件解決の為に協力。情報提供や販売元の割り出しに一役買いました。しかし必死の捜査にもかかわらず、結局犯人は捕まる事なく1975年に時効をむかえました。
謎の多い事であまりにも有名なこの事件、現在でもテレビ局からメガホンに出演依頼がくることがあります。
1970年(昭和45年)、大阪市の千里丘陵で開催されたアジア初の万国博覧会「日本万国博覧会(EXPO ʼ70)」に、PAシステムの専門メーカーとして施設参加しました。世界77カ国が参加したこの博覧会で、パビリオンのPAシステムをはじめ、「モノレールステーション」の自動放送システム、会場内を走る「ラジオカー」など、多くの人々を音で「おもてなし」しました。
開発者が語る「900シリーズ」開発秘話
『当時サンフランシスコにあるアパートの一室を借りて、何ヶ月もかけて市場調査をしました。その結果、新規商品企画から着手することになり、音響関係のあらゆる会社をまわってニーズを調査し、具体的なコンセプトができるまで徹底的に議論しました。商品に何か特徴がなければアメリカ人は振り向いてくれない。その何かを必死になって探して、インプットプラグインのモジュール化にたどり着きました。この時の開発コンセプトが「Something Different」。』
『商品には、メーカーとして「自分たちはこう考える」というのが現われていないとダメだと思います。もちろん、お客さまが認めてくれるものをつくることが前提ですが。』
1971年(昭和46年)に京成電鉄成田駅、翌1972年には南海電鉄和歌山市駅に「自動案内放送システム」を相次いで採用いただきました。1975年の南海電鉄最大のターミナル駅である難波駅へのシステム開発をきっかけに、音声ファイルの開発をスタート。「自動案内放送システム」は鉄道や空港などに採用され続け、交通施設市場への展開の先駆けとなりました。
1975年(昭和50年)、ジャカルタに合弁会社 PT. TOA GALVA INDUSTRIESを設立。インドネシアには既に1973年に駐在所を開設し、「ホーンスピーカー」において90%以上のシェアを獲得していました。現地に生産会社を設立することで、インドネシアの販売基盤をさらに確かなものにしました。
1977年(昭和52年)9月26日、TOAは大阪証券取引所市場第2部に上場。1970年代には石油ショックによる混乱や世界的な不況など、株式の上場までに予期せぬ事態もありました。しかし、会社として次のステージへと進むためには「知名度の向上」と「自己資本の充実」が重要であると考え、審査を経て上場を果たしました。
世界最大のイスラム教徒を有する国インドネシアには、大小さまざまなモスクが全国に点在しています。モスクには、お祈りの時間を知らせるホーンスピーカーや、コーランを朗読する聖職者の声を伝えるコラムスピーカーが設置されています。TOAはこのモスク向けのスピーカーシステムだけでなく、商業用途や公共施設などにも多くの放送設備を納入しています。
1978年(昭和53年)に発売したカラオケ用商品、ワイヤレスミュージックアンプ「MA-007」が大ヒット。その後カラオケは日本中でブームとなり、業務用から家庭用まで幅広いラインアップを揃えていました。
当社のサウンドシステムへの評価を高めたのが「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピアʼ81)」1981年(昭和56年)と、「ユニバーシアード神戸大会」1985年(昭和60年)でした。
大規模な博覧会やスポーツイベントで、プロデューサーやミキサーオペレーターなど音響の専門家から、その音質と耐久性を認めていただきました。
1980年代後半、日本はライブハウスやディスコがオープンし、大音量や連続使用に耐えるサウンドシステムへのニーズが高まった時期でした。
また店舗など、商業施設やアミューズメント施設の空間を、その目的に合った音デザインで演出するニーズも増していき、当社の積極的な音づくりの姿勢は高い評価を受けました。
知る人ぞ知る、過酷な研修
写真は1988~93年まで、TOAの新入社員教育の一環として行われた「無人島研修」での一コマ。この研修は、乗っていた飛行機が事故によって不時着したという設定で、助けが来るまでの3日間を限られた食料と資材を使って生活するというもの。食料がなくなれば、自分たちで調達しなければなりません。野生の鶏や海草を食べたりと、某テレビ番組も顔負けのサバイバル。飢えと寒さで、終了時には「歯磨きさえもおいしかった」ようです。
1989年(平成元年)5月、神戸ポートアイランドで新本社ビルが竣工。新社屋のロビーからホワイエまで音による演出を施し、パブリックスペースは17世紀に実在した帆船の名称にちなみ「XEBEC」(ジーベック)と名付けました。社名も東亞特殊電機株式会社から「TOA株式会社」へと改め、平成時代の始まりとともにNew TOAとしてのスタートを切ることとなりました。
開発者が語る、フルデジタルミキシングシステム「 ix-9000 」開発秘話
『フルデジタルミキサーの開発は世界初の試みであったにもかかわらず、着手から納入まで2年半という過酷なスケジュールの中ですすめられました。ウィーン国立歌劇場のトーンマイスターと何度も打ち合わせをくり返し、プロト機開発、一次試作、納入機開発を経てようやく機材を劇場に持ち込めました。』
『このデジタルコンソールの開発のひとつのきっかけは、当時の研究開発のメンバーが、デジタル信号処理の研究と開発を既に進めていたことです。そのノウハウと開発メンバーの現場理解とが ix-9000 の開発へとつながっていきました。新商品を生み出すには、いろんなアイデアを形にする「仕込み」が必要だと実感できた仕事でした。』
[写真は ix-9000 ]
1983年(昭和58年)、ミュージシャンやサウンドエンジニアのニーズを把握して商品開発に活かす部門を設置。1990年(平成2年)にツアーリングスピーカー「Z-DRIVE」が生まれました。
開発チームは堅牢さや耐久性を追求し、過酷な使用に耐え、高音質なスピーカーは、ライブ会場や屋外で開催された多くのイベントを成功に導きました。
芸術、文化への支援活動に贈られる「メセナ大賞'95」(主催・社団法人企業メセナ協議会)を、XEBECホールを中心に展開している「音文化啓蒙活動」が高い評価を得て、受賞しました。XEBECでの活動は、これからも人と音の関係や、音のあり方や役割などを考えてまいります。
[写真は授賞式の様子]
1995年(平成7年)以降、阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂と都市の復興・再生への夢と希望を託して毎年開催されている神戸市主催の祭典「神戸ルミナリエ」。TOAは地域とあゆむ企業として協賛し、イルミネーションのテーマに合わせた楽曲の制作、音の演出を行っています。
「TOA宝塚事業場新社屋」が1998年4月に竣工しました。OAフロアと光ファイバー網を整備したインテリジェントビルで、宝塚の自然環境と「音空間メーカー」であるTOAの企業イメージを表現した音デザインを施しています。作曲は音楽家の松尾謙二郎氏※。
エントランスをウェルカムサウンドで演出し、お客さまをお迎えするほか、電話保留音や時報、エレベーターサイン音など、館内で使用される音もトータルにデザインしています。
これは「音の専門家」としての当社のイメージを、統一感をもってお客さまにお伝えしようというものです。
※ Kenjiro:松尾謙二郎(まつお・けんじろう)。福岡県出身の音楽家。各種イベントのサウンドプロデュース、音楽制作の他、マルチメディアタイトル、TVCM、アートパフォーマンスなど多方面に活躍中。
2002年(平成14年)FIFAワールドカップの会場となった神戸ウイングスタジアム(現・ノエビアスタジアム神戸)。大会に合わせて改装され、臨場感を盛り上げるフィールド音響システムが求められました。
試合内容を考慮した音づくりができるデジタルミキシングシステム「ix-3000」の採用や、広指向性スピーカー72台を分散配置して、会場のどこにでも明瞭な音が届くように配慮しました。
「スーパー防犯灯システム」は、誰もが安心して過ごせる街づくりを目指して、2004年(平成16年)に警視庁が銀座に導入しました。防犯灯に取り付けられたドーム型カメラと通信システムが所轄警察署とネットワークで結ばれ、現場からボタン一つでつながることで緊急時の迅速な対応をサポートしています。
2005年(平成17年)の建設当時、世界一の高さを誇った超高層オフィスビル「TAIPEI 101」。このビルを利用する全ての人々が快適に、安心して過ごせるよう、TOAの業務用非常用放送設備が活用されています。用途に応じて必要なエリアへの放送が可能で、火災などの災害時には業務放送に優先して非常放送を行うことができます。
日本初の本格的野球場として、1924年(大正13年)に誕生した阪神甲子園球場。大規模なリニューアル工事が2010年(平成22年)にかけて実施され、ラインアレイスピーカーをはじめとする大規模競技場向けの音響システムが採用されました。明瞭性が高く、力強いサウンドが熱戦を盛り上げています。
2010年(平成22年)、メセナアワード2010において「文化庁長官賞」を受賞しました。子どもの成長段階に合わせた複数プログラムを多角的に展開した「TOA Meet! Music! Concept」の取り組みが、ほかに例を見ない独自のプログラムであること、そして継続的な実施により、地域社会に貢献していることが高い評価をいただきました。
音楽と教育を基本軸とし、「それぞれの世代に、それぞれのカタチで」を合言葉に複合的なプログラムを展開しています。
世界で最も権威あるテニストーナメントの1つ、ウィンブルドン選手権が毎年開催され、トップレイヤーが熱戦を繰り広げる「ウィンブルドンテニスコート」。放送設備のリニューアルに合わせてシステムは高機能なものへと更新され、2011年(平成23年)にはスマートマトリクスシステム「SX-2000」やデジタルパワーアンプなどの音響機器を納入。大会のスムーズな運営を支えています。
2011年(平成23年)から開催されている「神戸マラソン」では、スピーカーやメガホンなど音響機器で大会に協賛しています。スタート地点に設置した16連結のホーンアレイスピーカーは、優れた遠達性と明瞭性で先頭ランナーから1km近く後方にある最後尾までクリアな音声を届けます。さらにゴール近くでも声援や演奏、実況アナウンスの声を「Z-DRIVE」がランナーと沿道で応援するサポーターに届け、大会を盛り上げています。
2011年3月11日、東日本大震災の発生から防災放送用スピーカーの役割があらためて見直されています。ホーンアレイスピーカーは、従来の2倍以上の距離まで音が届き、はっきりと放送を聞き取ることができるため、より遠くの人々へと安全を呼びかけることができます。阪神淡路大震災を経験した神戸の企業として、これからも減災・防災への思いを大切にいたします。
2019年10月2日、メガホン 「ER-1103、ER-1106、ER-1106S、ER-1106W 計4機種」が2019年度グッドデザイン・ロングライフデザイン賞(表彰主体:公益財団法人 日本デザイン振興会 会長)を受賞しました。
発売から14年経った本商品を「透明パーツとマイク部の素材の組み合わせには高密度な道具らしさが感じられ、とても使いやすい。このメガホンが登場した当時は、コンパクトで機能的ながら何よりスタイリッシュな見た目が印象的だった。新しいものが登場したとき、このインパクトはそのまま物の力となりスタンダードな道具として私たちの生活の中にその居場所を刻んだ」と改めて高く評価頂き、受賞に至りました。
「ナレッジスクエア」は、TOAの研究開発拠点である「宝塚事業場」の再開発に伴う新しいビジネス拠点の総称です。
当社の開発者だけでなく、ユーザーや取引先、協力会社、大学や研究所などの専門機関など、多種多様な人々や情報が集い、新しい価値を共に創り出す「共創」の場として生まれ変わりました。
新設した研究開発棟ココラボでは、当社の未来につながる技術開発と、専門性の高い様々な企業との協業によって実現した「TOAミライソリューション」も展開しています。